https://toyokeizai.net/articles/-/928241
略)
あるアメリカ人夫婦の休暇旅行
もし人生を最初まで巻き戻し、再生ボタンを押したら、すべてが同じ展開になるだろうか?1926年10月30日、H・L・スティムソン夫妻は京都駅で汽車を降り、近くの都(みやこ)ホテルにチェックインし、56号室に入った。
ひと休みしてから、かつての帝都を散策し、町を染め尽くす秋の彩りを満喫した。モミジは深紅色に変わり、イチョウは瑞々(みずみず)しい緑のコケの上にすっくと幹を伸ばし、黄金色の葉に包まれている。
2人は、この古都を取り巻く泥岩の山々の懐に抱かれた、あちこちの簡素な庭園を訪ねた。由緒ある寺の数々に感じ入った。柱や梁(はり)の1本1本までもが、かつての将軍たちの時代の姿をとどめる豊かな遺産だ。
6日後、夫妻は荷物をまとめて支払いを済ませ、去っていった。
だが、これはありふれた旅人の訪問に終わらなかった。都ホテルの宿帳に記されたスティムソンの名はやがて歴史記録に変わり、一連の出来事を象徴する遺物となる。
それらの出来事を通して、1人の人間が神の役を演じ、10万人の命を救う一方、別の場所でそれに匹敵する数の人の命運を尽きさせることになるのだった。ことによると、これほど重大な結果につながった観光旅行は、人類史上他に例を見ないかもしれない。
略)
了)
19年後、京都のモミジからははるか彼方(かなた)のアメリカのニューメキシコ州で、ヤマヨモギが点々と生えた丘陵地帯にある極秘の場所、暗号名「サイトY」に、物理学者と軍人たちの、普通ならありえない一団が集合した。1945年5月10日、ナチス・ドイツの降伏から3日後のことだった。
今や戦争の焦点は太平洋方面に移り、そこではいつ果てるとも知れぬ血なまぐさい消耗戦が続いていた。ところがニューメキシコ州のこの僻地(へきち)では、科学者と軍人には、救世主となってくれそうなものが見えていた。それは彼らが「ガジェット」と呼ぶ、想像を絶する破壊力を備えた新兵器だった。
この兵器の潜在能力の全貌を実証する試験はまだ成功していなかったが、サイトYにいた人は誰もが、それが間近であることを感じ取っていた。その成功を見越して、13人が目標検討委員会に加わるように求められた。この委員会は、ガジェットをどう世界に披露するかを決めるエリート集団だった。
どの都市を破壊するべきか? 彼らは、東京を目標にするのは得策ではないということで意見が一致した。激しい爆撃によって、この新しい都はすでに荒廃していたからだ。代替案を比較検討した彼らは、ある都市を目標にすることで合意した。最初の原子爆弾を投下する場所は、京都に決まった。
京都には戦時下に新設された軍需工場が集中しており、そのなかには、飛行機のエンジンを毎月400基生産できる工場もあった。そのうえ、かつての都を破壊すれば、日本人の士気に決定的な打撃を与えることになるだろう。目標検討委員会は、小さな、それでいてきわめて重要と言えそうな点も指摘した。
京都は教養のある人々が暮らす知性の中枢であり、名門の京都帝国大学があった。生き延びた人は、この兵器が人類史における新時代を象徴していることに気づき、戦争にすでに負けたことを悟るだろう、と委員たちは考えた。目標検討委員会の意見はまとまった。破壊するべきは、京都だ。
委員会は、予備の3つの目標についても合意した。広島、横浜、そして小倉(こくら)だ。目標のリストはトルーマン大統領に送られた。あとは爆弾の準備が整うのを待つだけだった。1945年7月16日、ニューメキシコ州の田舎の広大な無人地帯で爆発実験が成功し、核の時代の幕が切って落とされた。
目標検討委員会の決定は、もはや机上のものではなくなった。軍事戦略家たちは京都の詳細な地図を調べ、爆心地(グラウンドゼロ)を決めた。市内の鉄道操車場だ。爆発が意図されたその地点は、スティムソン夫妻が20年近く前に滞在した、あの都ホテルからわずか800メートルほどの所だった。
1945年8月6日、「リトルボーイ」という暗号名の原子爆弾が爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された――京都ではなく広島の上空で。14万もの人が亡くなり、その大半は民間人だった。3日後の8月9日、爆撃機「ボックスカー」が「ファットマン」を長崎に落とし、ゾッとするような死亡者数におよそ8万人を加えた。
京都への原爆投下に断固反対した男
1945年には、H(ヘンリー)・L(ルイス)・スティムソンはアメリカの陸軍長官の座にあり、最高位の文民として戦時作戦を監督していた。
武官ではないスティムソンは、自分の仕事は戦略目標を練り上げることであり、それらの目標を達成する最善の方法に関して制服組を細部まで管理することではない、と感じていた。だが、目標検討委員会が京都を破壊の対象にしたときに、その思いが一変した。
スティムソンはただちに行動を起こした。マンハッタン計画の責任者との会見のとき、スティムソンは断固とした態度を取った。「京都を爆撃してもらいたくない」。軍司令官との会談のときには、「私の許可なしに爆撃してはならない都市が1つ」ある、「それは京都だ」とスティムソンは言い切った。
それにもかかわらず、彼の主張に反して京都は爆撃目標リストに再登場し続けた。京都はすべての条件を満たしている、と将軍たちは言い張った。爆撃する必要がある、と。
彼らは不思議がった。なぜスティムソンは、日本の軍事力の要衝をむきになって守ろうとするのか? 軍の幹部は、都ホテルや見事なモミジや黄金色のイチョウの木のことなど、知る由(よし)もなかった。
それでも信念が揺らぐことのなかったスティムソンは、最高指導者に直談判(じかだんぱん)に行った。彼は1945年7月下旬にトルーマン大統領と二度会い、二度とも京都を破壊することに対する猛烈な反対意見を並べ立てた。ついにトルーマンが折れた。京都は検討対象から外された。
爆撃目標の最終リストには、4つの都市が挙げられていた。広島、小倉、新潟、そして、後からつけ加えられた長崎だ。スティムソンは、将軍たちが彼の「お気に入りの都市(ペット・シティ)」と呼んだ京都を救ったのだった。代わりに、最初の原爆は広島に投下された。
了)
あそこ盆地でようけ焼けそうやからなw
当時の原爆は半径5kmしか焼けないから盆地が大きすぎる。
日本に招いて現実の日本を体感してもらうことが意外と大事ってことだと思うんだよな
外国人留学生受け入れは重要だよな
広島も呉とか三原とかと違って教養のある人々が暮らす知性の中枢じゃけ
名門の広島高等師範学校もあったじゃけ
だからターゲットにされたんでしょ
スティムソン夫婦が京都じゃなくて広島に観光旅行してれば…
広島は助かったのかな?
次の投下が行われる前に日本が降伏した
それだけの話
参謀総長の箴言が採用された
デマ流すな
じゃあ広島、長崎はある種、京都のスケープゴートだったわけか?
すでに大空襲で焼け野原になってるところに落としても無意味じゃん
そういう意味でほとんどの都市が焼け野原になってて、遅れてきた原爆を落とせる都市が限られてた中での選択だったんだよ
最後の原爆は東京湾で爆発させてヒロヒトに見せつける予定だったとか
京都とか他の都市に落とされなかったのはたまたまで美談にするような理由はないっていう
こんなことでも地域差別しようとする意識って
ゴミカッペは確実に56すべき
広島の投下時の軍事基地とかみてみ


コメント