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5000人の少女を集め、服を脱がせて調べ上げる…中国皇帝の「妃選び」で行われた身体検査の異様すぎる中身 手足の長さや腋のにおいも審査対象だった
家がらより容姿を重んじた明の皇帝
過去の日本の天皇や、征服王朝の皇帝は、君主の血統カリスマを維持するため、后妃を選ぶ際は血筋や家柄を重んじた。
明(1368年─1644年)の君主は違った。太祖(初代皇帝)洪武帝は農民だったため、血統カリスマはない。また、なまじ貴顕の家の女子を后妃にすると、外戚(后妃の父方の実家)の専横の種になりかねない。そこで明王朝の歴代の皇帝は、血筋や家柄があまり高くない普通の女子を后妃とする傾向があった。
建前上は、面接試験を行い、女子の品徳を重視した。本音では、美しくてセクシーな女子を選んだ。
美女は賢女とは限らない。そのような母親と、そのような女性を好む父親から生まれた皇帝が、必ずしも優秀とは限らない。
皇帝が、民間の良家の子女に募集をかけて後宮の女性を選ぶことを「選秀女」(秀女選び)と言う。「秀女」つまり後宮に仕える優秀な女性を選ぶ、という意味である。「秀女」という語が定着するのは清の時代からだが、後世の歴史家は明代にさかのぼり、「選秀女」という言葉を使う。
明の後宮を支えた女性たち
歴代王朝と同様、明でも、後宮の女性の全員が后妃だったわけではない。
明の後宮の女性は、時代によって呼称について多少の変化はあるが、おおむね、后妃・女官・宮人の三種類である。
后妃は「淑女」とも呼ばれ、皇帝の妻妾として、世継ぎを産むことにつとめた。皇帝の子作りのモチベーションを高めるため、採用にあたっては容姿や年齢が重視された。外戚の専横を防ぐため、普通の家の女子が選ばれた。
女官は「宮女」とも呼ばれ、管理職だ。文筆や事務処理などの能力が求められた。皇帝の妻妾ではないので、採用にあたっては容姿も年齢も重視されず、ベテランが中途採用されることもあった。
宮人は雑役婦で、後宮女性の圧倒的多数はこれである。身分は低いが、宮人の中には皇子の乳母となって、皇子が皇帝となったあとも宦官とつるんで政治的影響力をふるうものもいた。
楊貴妃はとんでもないブスだったけどワキガ持ち
皇帝と同衾するのは、制度上は后妃だけだが、皇帝の権力は絶対である。ごくまれではあるが、女官や宮人が皇帝の「お手つき」になるケースも、ないわけではなかった。
なお、後世は、后妃・女官・宮人など後宮女性全体を漠然と指して「宮女」と呼ぶことが多い。康熙帝(清の第4代皇帝)が明末の「宮女」は9000人にのぼった、と言ったのも、女官だけでなく、宮人や后妃も含めた数であろう。
明代の後宮の制度と実態については、前田尚美氏の論文「明代後宮と后妃・女官制度」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』第08号、2009年)に詳しいので、そちらにゆずる。
明の選秀女のやりかたは、時代によって変化はあるが、おおむね次のとおりであった。ここでは、明末の例をとりあげよう。
后妃を目指し北京に集った5000人の少女たち
明の末の天啓元年(1621年)。前年に即位したばかりの天啓帝(1605年─1627年)は、后妃の選抜試験を行った。その選抜のプロセスを、清の文人官僚だった紀昀は『明懿安皇后外伝』で次のように書いている。
まずは公募。天下の13歳から16歳までを対象とし、新帝の后妃の候補を募集した。応募者には、役人がお金を支給した。「うちの娘なら、もしかすると」と自信のある親は、娘を連れて北京にのぼった。正月、北京に集合した后妃候補の少女の数は、5000人。
第一次選抜。皇帝は、内監(宮廷内の上級の宦官)を選抜会場に派遣した。少女たちは100人ごとに年齢順に並べられ、宦官たちが見て回った。この子は背が高め、この子は背が低め、この子は太め、この子は細め、など外見を一人一人、目視してチェック。この時点で規格外の少女1000人が帰郷させられた。
声や歩き方での審査
翌日、第二次選抜。少女たちは前日と同様の要領で並んだ。宦官たちは少女の列のあいだを歩きまわり、念入りにチェック。少女の耳・口・鼻・髪・肌・腰・肩・背中などを見て、基準にあわぬ子ははずした。次は声のチェック。少女たちは自分の本籍、姓、生年、年齢を言わされた。声がちょっとでも男の子っぽい、くぐもっている、濁っている、よどみがあるとハネられた。この時点で、さらに2000人が退場。残ったのは2000人。
翌日、第三次選抜。宦官たちはそれぞれ手に物差しをもち、少女の手足の長さを計測。その上で少女らを数十歩ほど歩かせ、姿勢の美しさをチェックした。ちょっとでも腕が短かったり、足の形が悪かったり、立ち居振る舞いに品がないと、ハネられた。この時点で1000人が退場し、残りは1000人。実は、ここまでは前検査にすぎない。
(ヽ´ん`)🍷
こうして、当初の5000人の少女のうち、300人だけが合格した。合格者は全員、上級ランクの宮女となった。
それから一カ月間。少女らはそれぞれ、性格や言動をじっくり観察された。気性は強いか、やさしいか。頭はよいか、悪いか。人間性を総合的に評価されたうえで、最終的に50名だけが選ばれた。彼女らは妃嬪、すなわち皇帝の側室となった。
そのうち皇后になれる少女は、ただ一人。競争率5000倍の選抜を勝ち抜き、皇后の座を見事に射止めたのは、懿安皇后張氏だった。
哀帝とか恵が付く諡つけられる皇帝が続出
万暦帝前後が特に
種馬でもそんな数こなせるんか?
ほとんどがただの労働力だよ
後宮は女しか入れないから下級役人や農民の娘が炊事洗濯のために「皇帝の妻」という名目で雇われて一生抱かれることなく終わった
宦官の権力強い時代は夜の相手は賄賂もらった宦官が選んで皇帝は「オレは種馬か…」って嘆いた
あれはキサキじゃない働く女枠じゃね?
9000人から選ぶってのにソバカス女なんて予選前落ちだよ
きびしいたけ
20人くらいならVRで仮想空間に並べてなんでもできるからな
次はAI時代だ
校長は異常な早漏&回復力が功を奏したらしいな
共産党の上の方にいるのはみんなブサイクだよな


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