中絶されるはずだった子（男性・奈倉清孝）

母が認知症になってから、何度も繰り返し「清孝は中絶するつもりだった」と言った。当時仕事を持っていた母は、忙しくて子どもを持つのはまだ早いと思ったらしく、堕胎を決心する。婦人科へ行ったとき、豚屋のおっかさんと呼ばれていた養豚業を営む近所の女性と偶然、病院の前で出会ったそうだ。

「何しに来たの？」

　母は目をそらし、何も言えなかったそうだ。すると豚屋のおっかさんは「中絶しに来たね。顔を見ればわかる」と言った。さすが、豚を相手にしているだけあって、動物的な直感が働いたのだろう。

　彼女は母の手を引いて、家へ連れ戻す。「２度とそんなこと考えたらダメよ」と諭しながら。それから母は婦人科から足が遠のき、産む決心をしたそうだ。

　彼女は命の恩人なんだと感謝の気持ちが生まれ、どうしているか気になって訪ねてみた。僕は小学生の頃、よく豚屋のおっかさんの息子と遊んでいたので、自宅を知っていたのだ。養豚業はとっくに廃業し、初老になっていた長男が出てきた。

「奈倉ですが、おっかさんはいますか？」
「えっ？あの奈倉くんかぁ。懐かしい。母は３年前にがんで亡くなってね」
「そうだったんですか？あのぅ、お線香あげていいですか？」
「もちろんだよ」

　僕は仏壇に飾ってある、髪が真っ白になっていたおっかさんの写真に向かって手を合わせた。もし、僕が生まれていなかったら、それはただの無。なにもないということ。生命の危機は中絶を逃れてからも続く。

　５歳のときに流れてきた木の船が欲しくて、追いかけていたら川に落ちて溺れ、もうダメだと思ったとき、偶然通りかかったおばさんから助けてもらった。普段はめったに人が通らない場所なのに…。

　7歳でバイクにはねられたが、ランドセルが外れて後頭部を守って無傷。中に入っていたおにぎりが円盤のように潰れ、クッションになって衝撃を吸収していた。

　厄年を過ぎてからは心臓手術など、さまざまな生命の危険に直面したが、どうにか元気でいる。今まで傷つけられたり、相手を傷つけたり…。いろんなことがあったが、生まれてきてよかった。

　もしかしたら僕は、今この文章を読んでいるあなたに何かしら影響を与える目的で、この世に誕生したのかもしれない。

https://note.com/calm_lily129/n/n7595245cdba5